※前編からの続きです。
左写真は2020年5月24日(日)、東京・浅草橋「ラ・バリーカ」で開催予定のカンテライヴのチラシ。ギターは俊英・徳永健太郎
※※上記ライヴは中止となりました※※

"ダメだ、何か探すんだ!!"


――アルバムの曲順に録音したのですか?

「曲順ではないですね。アレグリアスの次はたぶん、ティエント......15日間の中でアルフレッド※1が来られる日が三回しかなかったので、ダビの中でアルフレッドとパスクアル※2の担当を決めていたようで、ちょっとモデルノの雰囲気な音が必要なときはアルフレッド、トラディショナルはパスクアルという風に」
※1アルフレッド・ラゴス、ギタリスト。1971年ヘレス出身、ダビの兄。
※2パスクアル・デ・ロルカ、ギタリスト。1961年ロルカ出身。

――それは全部ダビの差配ですか。

「アレンジもすべてダビのプロデュースです。今回の楽曲を決めるのも高知とヘレスでやり取りはしましたけれど。本録りでは、ギターが出来上がっている所に、私が歌を入れていきますが、さっきのゴルペ・デ・ボスとか、全部細かく直されます。ゴルペ・デ・ボスがダメだと言われるから力を抜いて、優しく歌おうとすると『ノウ!ブスカアルゴ(ダメだ、何か探すんだ!)』って言われるんです」


――ゴルペ・デ・ボス以外には?

「プロヌンサシオン(発音)がもちろん、めちゃくちゃ直されます『あかりはいい時とダメな時が自分でわかってないのが一番問題だ』と言われました。各パートを録音するとき、音の波形がパンタージャ(モニター画面)に出てきますよね。その失敗した所にかぶせて『ここから録るよ』とやっていくんです」


――そこまで細かいとは...。

「『アオラ(今だ)とか言えないよ、僕の声が入っちゃうから』という感じで重ね録りますが、時にはパンタージャを見るなと言われたり、音だけ聞いてとか」

――どのくらいのレベルで録り直すんですか? 歌詞一行とか?

「ウナフラセ(1フレーズ)、ウナパラアブラ(1単語)」(笑)


――それを一つ一つ当てはめていく?

「全部ダビが一人で(録音機器を)操作出来るからです。15日間すべてホセが来なければいけなかったら、すごく大変だったかもしれない。結局、一番費やしたのは、ダビと二人でスタジオこもっていた時間でしょうね」

――例えば、マラゲーニャの「マドリード」の単語の歌い方がまずかったら、そこだけやり直すということですか?

「そうです。その前の"ビバ"から。いや、"コルテ"から直されてました。"コ~"の上がり方が強すぎるから。そこを滑らかに。そのデモンストレーションで、もう半分顔が怒っているんですよ(笑)。二人でカスコ(ヘッドフォン)をして、同じパスクアルの音を聴いているんですが、ダビがカスコを外して『ここはこういう風に歌え』って。もう少し練習させて、と思うんですけど、次の数秒後にそこを録らなきゃいけないから」


――では"コ~ルテ"と歌い直して、「じゃあはい次」と細かくやり直していったわけですか?

「そうです。もう気の遠くなるような作業です」


――他にはどんなことを指摘されたんでしょう? 日本のカンテ志望者に参考になりそうな話があれば教えて下さい。

「我流なエスカラ(音程)か、ビブラシオン(ビブラート)ですね。そんなに飾るな、"フロリトゥーラ(floritura=音楽上の装飾)"と言われました。"No canta floritura"と。とにかく基本中の基本です。スペイン人の歌い手で、例えばエストレージャ・モレンテやアルカンヘルみたいに、すごく特徴があってうまい歌い方をする人が一杯いるでしょう? ああいう人を真似したい日本人は結構いると思うんですけど、あれをいきなり真似すると、私みたいにヘンなところへ行っちゃいそうになるから、その軌道修正をダビはしてくれたと思いますね。最後のカイーダ(音程が下がっていく部分)の音でも、適当じゃ絶対ダメなんです。落ちていく一音一音を、すごく全部大切に直されて、それがトータル的に聴いて、ちゃんとしたフラメンコになるのだとわかりました」


――自分では気付けないんですね。

「合ってるつもり、でした。レコーディング行く前と大きく変わったのは、音感が緻密になったこと。外れてないと思っていたけれど、外れていた。その時は一生懸命でわからなかったですけど、時間が経って聴くと、気付きがありますよね。
 実は今回のレコーディングに行く前から、心がけて絶対やっていることがあるんです。私はこれをいつも持ち歩いていますけど、調子笛です(と、円形13音型の私物を見せてくれる)。
 例えばポルメディオの5カポだったら、(と吹く)――。つまり、ギターの音に助けてもらわない。そうしないと自分の音感はいくら練習しても良くならないので、トナーとマルティネーテの練習や、タランタみたいに半音の旋律が一杯出てくるものは外れそうになるので、これを使います。タランタは必ず一番最後に最初の音へ戻りますよね。空き地に行って車の中で練習するんですが、最初に吹いて歌い始め、最後ちゃんとその音で終わってるか、また吹いてチェックする。だから音感は悪くないと思っていたんですが、今回のトナーも『外れてる外れてる!』と怒られて。シギリージャの"アイ"だけでも、ものすごく直されました。難しすぎて外れてるのがわからないんです。収録に関しても、"アイ"だけで3時間、『ボルベール』は30分、と冗談で言われたくらいですから」


日本語詞をカンテへ変える挑戦

――亡きお父様に捧げたブレリア「Recuerdo de mi pare(父の思い出)」の詞は、いったん日本語の歌詞を作り、それをスペイン語に転換したという話ですが、その制作過程を教えて下さい。

「まず自分で作った日本語詞を、私ひとりでスペイン語の文章にしたんですよ。それを、年に何回もセビージャへ習いに行き、すごくスペイン語に長けている踊り手の内藤由紀子さんに、私のスペイン語を直してもらったんですね。
 そのレトラへブレリアのメロディを付けて歌って録音し、ワッツアップでダビに送ったんです。そしたらその二日後には『デモ』という形で、パルマ入りで、ほとんど完成ヴァージョンが送られて来たんですよ。もうこれは彼の才能ですね。
 結局、すごく大好きな父が人間としていなくなってしまう哀しみを、書きたかったんです(お父様の栄さんは2015年に逝去)。人間はやっぱりいつかは死ぬ。その別れのときに、私のような悲しい思いをみんなすると思うんですけど、あなただけじゃないんですよ、みんなそうなんですよ、というメッセージを入れたい、思いを入れたかったというのがありますね。
 ガンを宣告されたとき病院の一室で、ウソだって言ってほしいとか、もっと込み入ったレトラだったんです」

――それを抽象化したということですね。

「そうです。あとダビに注意されたのは、私が"コスモ(宇宙)"という単語を歌詞に入れていたのですが、それはフラメンコでは使わないんだ、と。そんな知識も私は無いから、ただフラメンコに聴こえるように、自分の作ったメロディに乗せて送っただけなので、それを全部すっきり手直ししてくれ感謝しています」

――本場のカンテ・ホンドを感じさせる熱く深い歌いぶりが衝撃でしたが、メッセージ性は日頃から強く意識している?

「今もダビが"あかりはもっとスペイン語をやらなきゃダメだ"と言われ、私もそれを痛感していて、それでもカンテが好きだからここまで来ちゃったんですね。私の場合、結構後付けなんですよ。先にメロディとレトラの響きを、"あ、これ好きだな"と直感で歌いたいと思って、歌う。後から(歌詞を)見てみたら、こんなことを歌ってたんだと。当然頭の中は、最初は歌ってる脳と、意味を理解する脳がセパラーダ(別々)な状態で。
 例えばグアヒーラの"me gusta por la manana"だったら、簡単に言えるしゃべり言葉"私は朝が好きなんだよ"なので、つなげて一緒に考られます。トラディショナルなレトラは歌っているとき、例えば"porque me dieron tanto golpe(なぜそんなに私を殴ったのか)"は、今はだんだんつながってきたんですけれど。
 最初は歌とメロディとしてとりあえず、言葉のわからない歌を歌っている感じで、意味はそのとき一緒には考えられていないです。でも歌っている時のイメージは持たないと、絶対気持ちは入れられない。私の場合、何かを伝えようと思って歌ってるわけじゃないと思うんですよ。本当にカンテにほれ込んでしまった、スペイン語の響きとカンテのリズムに、フラメンコのリズムに引き込まれてしまったから、歌いたいから、歌っているんです」

 CD付属の歌詞カードの背景には、山田さん自筆のイラストが描かれている。そのイラストに込められた意味も明かしてくれた。

「こういう絵をなぜ描いたかというと、レトラがその時ダイレクトにわからないから、絵でイメージする。絵として捉えてしまえば、気持ちもちょっと入れられますよね。あとは自分の経験です。例えばトナーの歌詞でも、私の独自の解釈というのがあるんです。
"立ち去る者の無言の叫び"と彩さん(※歌詞対訳者の小里彩氏)は訳してくれています。私にはとにかく、離れていく、というイメージ。これは明らかに、この世から去っていくときのことです。私はまだ死んでないから、それは自分でわからない。私の経験で考えると、見送った人を思うしかない。そうしたら父と母しかないですよね。それをいつも思い描いてしまう。
 そういう風にリンクしちゃうのは自然なことなのか、自分でもわからないですが、だからスペイン語がまだまだわかってなくても、歌うことができると思います。そんな感覚で歌っています」

――ダビが寄せたCD冒頭のメッセージ「もしこちらが偏見を持たずに心を開きさえすれば――現にジャズなどの他ジャンルではすでに起きているように――必ず世界中にフラメンコは拡大するだろう」(抜粋/小里彩氏訳)を拝読しましたが、進歩的考えですね。

「ダビ自身にもフラメンコの今の位置づけは、まだ小さな中にある、まだまだフラメンコを世界に広げていく意識が強くあるんだと思ったんです。そして、私が日本人で、ここまでフラメンコのことを好きで、CDまで作ってしまった今回のこの一つの行程が、一個の小さな壁を、もしかしたら破るきっかけになるかもしれないな、と思ったんです。
 上手なスペイン人が普通に作るCDじゃない。日本人だから。それを批判されることなく、やる意味。フラメンコを目指す日本人は、みんな迷うじゃないですか。スペイン人になれないから。なれないけれどフラメンコが好きですし。そんな中で一緒にこうやって作れたことで、一つ光が見えたんです。私の目指す夢みたいなものが、ちょっとだけ道がはっきりと。
 今までは草原のような、草が茫々と生えているような所を、どこへ進んだらいいのか、という感じだったのが、少し整備されて、ああ、ここに行けばいいんだ、と見えてきたような気がします。
 それは結局ウニコ(ただ一つ)のもの、私にしかできないことじゃないと、多分意味がないと思うので。私なりの勉強の仕方で続けていかなきゃいけないなと思います」

 合計で3時間以上にわたったこのインタビューは、山田さんが高知から上京した今年1月29日、新宿のカフェで行われました。
 ちなみに本コーナーは元来、「アルテと酒の邂逅」と銘打っていますので、最後にちょっと酒がらみのエピソードを。
 山田さんはCD収録が上手くいくよう、セルベッサ(ビール)を飲むのはいちばん最後の日、という願掛けをしていたそうです。「でもあまりもう今は飲まないですよ。若い頃すごく飲んだので。今はもういらないんです」ときっぱり。インタビュー当日もエスプレッソにカプチーノ。さすがでした。

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