お伝えしておりますフランスのモン・デ・マルサンのフェスティバルは今年で27年目と言う老舗的存在ですが、昨年始まり今年2歳を迎えるスペインのフェスティバルもあります。今年のヘレスのフェスティバルで活躍の目立ったカディス勢。その中でも、伝説のカンタオール、カマロン・デ・ラ・イスラの出身地、サン・フェルナンドの「ラ・イスラ・シウダ・フラメンカ」(第61回のウォーカーでも紹介しております。詳細、プログラムはこちら)カディス県のアーティストを中心に、マイテ・マルティン、アントニオ・カナーレス、ローレ・モントージャらのゲストも迎えて開催中です。
このフェスティバルで活躍が期待されているのが、地元サン・フェルナンドに住む若手カンタオール、ホアキン・デ・ソラ(Joaquin de Sola)。今日はちょっと意外な経歴のこのカンタオールを独占インタビューをまじえてご紹介します。

14934131580_580c0de13a_o.jpg「プリンシピオ(Principio)」というホアキン・デ・ソラのデビューアルバムを初めて手にしたのは2014年。ヘレスのフェスティバルでいつもCDを売っているフアンおじさんが、「これはいいから持っておいた方がいい」と薦めてくれました。しかし、恥ずかしながらその時点ではホアキンのことは全く知りませんでした。「フラメンコ・オイ(El premio Flamenco Hoy)でアルバム賞とったんだよ」と言われ、まずは聴いてみたいと思って購入。聴いてみるとジャケットの若いお兄さん的イメージとは違う、ずいぶん落ち着いた声。デビューアルバムなのに気負った感じもなく、とても自然なフラメンコでした。

それから一年後、同じくヘレスの記者会見会場。見慣れない"日本人"の青年の姿。そして、たまたまホアキンのマネージャーと話していると、その"日本人"が近づいて来ました。するとマネージャーのチコがその青年に「ホアキン!」と声をかけるのです。「え??」そう、その青年がホアキン・デ・ソラだったのです。アルバムのジャケットから抱いていたイメージとはずいぶん違って、柔和で、少し引っ込み思案かなと思わせるような、はにかんだ笑顔の感じのいい青年なのです。
そして翌日のコンサート。歌い出すと、これまたびっくり。なんとも堂々と楽しそうに歌い、表現力もたいしたもの。ギタリストを見る眼差しといい、とても新人とは思えない立ち居振る舞いだったのです。

その謎は、ホアキンの住むサン・フェルナンド(San Fernando)でのインタビューで解明されました。DSCN1726.JPG
知らなかったのもそのはず。なんとホアキンがフラメンコと出会ったのは2006年。カディスの中心部生まれのホアキンでしたが、フラメンコには近寄ってなかったと言うのです。「いつもバルにいるフラメンコの人たちが怖かったんだよ(笑)」そして18歳の時に、家族と共に隣町のサン・フェルナンドに引っ越しました。サン・フェルナンドは、カマロン・デ・ラ・イスラ(Camaron de la Isla)の生誕地。フラメンコもようやくホアキンの耳に届くことになります。もともと音楽好きの家族で兄もバラードを歌ったりしていましたが、なぜか誰もフラメンコには関わっていませんでした。ホアキンも、有名なカディスのカルナバルではグループに入って歌っていましたが、そもそも恥ずかしがり屋で、人前で何かするというのは「走って逃げ出したくなるくらい」苦手だったそうです。

そんなホアキンがカンテフラメンコと出会い、2007年には地元のペーニャ・チャト・デ・ラ・イスラ(Pena Chato de la Isla)へカンテを習いに通い始めました。地元のカンタオールのアギラール・デ・ベヘス(Aguilar de Vejez)、アフィシオナードのペドリン・ガルシア(Pedrin Garcia)らが歌うのをひたすら聴いて憶えるのだ。グラナイーナ(Granaina)やマラゲーニャ(Malaguena)、ソレア(Solea)をそこで憶えるうちに、どんどんカンテが好きになり、もっと巧く歌えるようになりたい!と思うようになったのです。

そんなとき、カディスのカンタオーラ、マリアナ・コルネホ(Mariana Cornejo)がアレグリアス(Alegrias)を教えてくれるクラスがあるというので、カディスに通い始めました。joaquin con mariana actuando.jpgアレグリアス、カンティーニャ(Cantina)、タンギージョ(Tanguillo)はカディスを代表する曲種であり、マリアナの得意中の得意。彼女から学べるチャンスを逃す手はありません。しばらくクラスに通い、ある日マリアナが「誰か一人で出て歌ってみなさい」と言ったそうです。おとなしかったホアキンは、それまでマリアナとは個人的に話せていなかったらしいのです。そこで思い切って立候補して歌い終わると、マリアナは驚いて「お前、どこから来たんだい?」「僕がカディスの出身です。今はサンフェルナンドに住んでるけど」どうやらマリアナはずっとホアキンのことを"日本人"と思っていたのです。私が最初にホアキンに会った時に、日本人かと間違えた理由もお分かりいただけるでしょう。

マリアナは自分の連絡先をホアキンに渡し、困ったことがあったら何でも言ってきなさいと言ってくれました。そして翌年の2008年。マリアナが連絡をくれたのです。またアレグリアスのクラスをするから受けにきなさいと。しかし、そのときホアキンは経済的に厳しく、それでも行きたいからなんとか工面できたら行くと返事をしました。するとマリアナは、「お前は私と一緒に来て、側で聴いていなさい」と。その後、マリアナはホアキンにコンクールへの出場を薦めました。ティント・デ・カディス(Tiento de Cadiz)が課題曲でしたが、まだ歌ったこともない曲。するとマリアナはマノロ・バルガス(Manolo Vargas)の録音をホアキンに渡し、「これを覚えてきなさい。一週間後に聞かせて」と言ったのです。一週間後、ホアキンが歌ってみせると、すぐさま「コンクールに出なさい!」と言われ、なんとカンテを初めて2年弱で出場。優勝は逃したものの、最終予選に残り、本選で歌うことになりました。

「あなたをヘレスのコンサートで観た時、とてもキャリア7年の歌手には見えなかった。むしろベテランな感じがしたんだけど、短期間でどうやってこのレベルまで到達したの?」と思い切りストレートに質問してしまいました。すると「マリアナが本当にたくさんのことを教えてくれたおかげなんだ。カンテはもちろん。彼女の溌剌としたカンテのスタイル、カディスのカンテを学ばせてもらっただけじゃなく、舞台の上でどう振る舞うべきか。そもそも僕は人一倍恥ずかしがり屋。初めてペーニャで歌ったときなんて、終わったらすぐ逃げ出したくなったくらい。それを、"舞台に上がった以上は皆がお前に注目しているんだ。だから尻込みせずに前に出て行きなさい"と言ってくれたり、座り方まで気を配るように教えてくれた。joaquin con mariana.jpgそして、彼女が歌っているところや他のアーティストをとにかく観察して、家に帰ると部屋に閉じこもってとにかく歌い続けたんだ。」

この観察力と集中力。そして信頼できる師からの教えを素直に吸収していったこと。人一倍の努力。これが今のホアキンを作り上げているのでしょう。そして、ホアキンがこんなにも早いスピードで成長したのは、まるでマリアナの、カディスのカンテを継承してくれる人材を育てたいという願いが結実したことのように思えるのです。というのも、マリアナ・コルネホは、2013年、ホアキンのデビューアルバムが完成した直後に、55歳の若さで帰らぬ人となってしまったのです。チャノ・ロバートに続き、カディスにとっては大きな損失。多くの中堅、若手歌手達が彼女を頼っていた最中の悲しい知らせとなりました。(写真上2枚:師マリアナ・コルネホと)

さて、2008年に初めてのコンクールを経験して以降、ホアキンはますます勉強を続けました。往年のカンタオール達のビデオを見まくり、細部にわたって観察しました。そして初めてパトラス(バイレの後ろで歌うこと)も経験することになります。カディス憲法を題材にした劇場公演でカンタオールが一人足りなくなり、ホアキンに話が舞い込んできたのです。しかし、バイレに歌ったこともないし、歌ったことのないシギリージャ(Siguiriya)やサエタ(Saeta)も歌わなくてはならない。それでも自分の歌声を気に入ってもらえたので、「ここは逃げてはダメだ」と渡されたCDを聴いて憶え、週2.3回のリハーサルのカディスに通い、見事に公演を成功させました。バイレに歌うことで、生き生きとしたコンパスがいかに重要かもわかり、さらに勉強に熱が入ってきました。ペーニャからも来て歌うように声がかかるようになったものの、ホアキンはフラメンコの世界では完全に一人。子供の頃からの繋がりや、家族にアーティストがいるわけでもない。カンテのプロの世界では一年生でした。そんな中、マリアナを始め、先輩のカディスのカンタオール、ダビ・バロマール(David Palomar)のように、ホアキンの実力を認め、ペーニャのオーナー達にも推薦してくれた人もいたそうです。

Fotos maletas 213.jpgそして2012年。2009年から毎年出場していたカディスのアレグリアスのコンクールで優勝。これを機にさらに道が拓けました。カマロンと繋がりの深いバル、ベンタ・デ・バルガス(Venta de Vargas)のオーナー、ロロ・ピカルド(Lolo Picardo)がカマロンのオマージュイベントをするというので、コンタクトをし当日ベンタへ行きました。そこで、ホアキンの歌声に惚れ込んだロロが、これからベンタでいろいろと企画していくから一緒にやっていこうと声をかけてくれたのです。

ロロの働きかけで、地元のプロダクション、フラメンコ・デ・ラ・イスラ(FLAMENCO DE LA ISLA)のハビエル・フェルナンデス・"チコ"(Javier Fernandez "Chico")がマネージャとなり、フラメンコの聖地の一つであるベンタ・デ・バルガスを拠点にできたことで、やがて初アルバムの制作の話も出ました。地元以外の人々にもこの青年の声を紹介したいという人々の想いから、名刺代わりとなるアルバムを作ることになったのです。それだけに、ホアキンの個性を出さなくては、名刺はただの紙切れ。歌う曲種はオーソドックスなものでも、歌詞はすべてそのアルバムの為のオリジナルとなりました。ベンタで共演をした、アントニオ・カナーレスも未発表の歌詞をプレゼントしてくれました。FOTO GRUPO JOAQUIN.jpg
そして何より、このニュースを喜んでくれたのは、第二の母とも言える、マリアナ・コルネホ。体調はすぐれないながらも、毎日電話で連絡を取り合い、ベンタで共演も果たしました。アルバムは、その年のフラメンコ・オイ賞の最優秀新人アルバム賞を受賞し、マドリードでの授賞式ではベテランアーティストの間に名前を連ねることができたのです。

「パランテ(Pa'rante;前でソロで歌う歌手)としてやっていきたいけど、パトラス(Pa'tras 踊りへの伴唱)をやめるということはない。パランテは自分一人。失敗は全て自分の責任。もちろんギタリストもいるけど、流れを作るのは自分。パトラスだと責任感は少しだけ軽くなるけど、もちろん責任はある。パトラスで歌うことは、コンパス感を身につけるにも、とても勉強になる経験だからやっておくべきだと思う。」
好奇心旺盛な笑顔でインタビューを締めくくってくれたホアキン。カディスの新星としてこれからの活躍に期待したいですね。

アルバム収録曲を歌う最新映像はこちら

写真:坂倉まきこ&一部アーティスト提供 Foto:Artista & Makiko Sakakura
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