アンダルシアはここ数日、これでもかというくらい降り続ける暴風雨が続いています。「水不足で困っていたからちょうどいい」と言っていた地元の人たちもさすがに青空が恋しくなったことでしょう。風は、強風と言うより突風で、折りたたみ傘はあっという間に逆転してしまい、とてもさしてはいられないほど。諦めて普通の傘を買いに行くと「とんだ時期にフェスティバルがぶつかっちゃったねー」とお店の人も気の毒がっていました。

メイン会場のビジャマルタ劇場では、16日間のフェスティバル期間に14公演が夜の9時から上演されます。ほとんどの公演は前日の仕込みができないので、スタッフも大忙しのことと思います。

JAVIERFERGO_LUPI_002-2.jpg公演3日目、日曜の夜はバイラオーラ、ラ・ルピ(La Lupi)の公演「ラ・パウラ(La Paula)」。似たようなカタカナ名で知らない人には紛らわしいですが、「ラ」は英語でいう冠詞「The」。スペイン語などラテン系の言語には、名詞に「性」があって、女性名詞の時には「ラ」、男性名詞には「エル」をつけます。サッカーの「ラ・リーガ(・エスパニョーラ)」や国名の「エル・サルバドール」などについているのがこの冠詞です。

JAVIERFERGO_LUPI_008.jpgラ・ルピは、アンダルシア州のマラガの出身。そのマラガにいた伝説のバイラオーラのラ・パウラをテーマにした作品です。ラ・パウラ(1902?1978)は、フラメンコの世界ではそんなに名前が知り渡っていません。地元でのフィエスタや酒場で踊っていたパウラの踊りは人気を博し、ピラール・ロペス(Pilar Lopez)、アルヘンティニータ(Argentinita)、カルメン・アマジャ(Carmen Amaya)など名だたる有名アーティストとも一緒に仕事をしていたほど。パストーラ・インペリオ(Pastora Imperio)はマラガに来るたびに彼女を探し、歌手のアントニオ・マイレーナ(Antonio Mairena)も自分の公演で彼女を舞台に上げようとしたそうです。
彼女の母親によると、ロンドンやパリなどの海外公演のオファーも断り、家族やマラガから長く離れることはなかったようです。また、精神的に不安定なところもあり、71歳の頃、精神病棟に入院し、そこで78歳で亡くなりました。

マラガの地元の人たちの間に埋もれていたバイラオーラの存在を知るきっかけにしてくれたこの作品。実際のパウラは、青いスカーフがトレードマークで、踊る時の腕の動きで観客を魅了していたようですが、公演ではそれを真似るのではなく、ルピの自身の踊りで、パウラの愛と情熱の物語を描こうとしたそうです。

JAVIERFERGO_LUPI_009-2.jpg普段は饒舌で熱くて、元気いっぱいのルピが、母役のカンタオーラ、チェロ・パントーハ(Chelo Pantoja)にしがみつき、何かに怯えるようにおどおどする全く別人格のパウラになっての舞台。気迫に満ちたバイレで踊り切りました。フィエスタでパウラを雇う地元のお金持ち役に、フアン・デ・フアン(Juan de Juan)。それを象徴するお金をばらまくシーンもありました。スペインの聖週間のシーンでは、カンタオーラのマリア・テレモト(Maria Terremoto)が神に捧げる歌「サエタ(Saeta(」を歌い大喝采。サプライズゲストに、歌手のミゲル・ポベダ(Miguel Poveda)が登場。彼のコンサートツアーにルピが参加していたこともあって、お返しのプレゼントだったのかもしれません。マラガでの初演時にも出演していたようですが、今回のプログラムや会見などでは一切予告はありませんでした。ルピのこの作品にかける意気込みが実って、人気歌手の名前に頼ることなく、客席を埋めることができました。

JAVIERFERGO_LUPI_010-2.jpgオープニングの曲の歌詞は、バイラオールのエル・フンコ(El Junco)が書いたもの。作曲とギターを担当しているオスカル・ラゴ(Oscar Lago)がエル・フンコとよく仕事をしている関係で書くことになったそうです。もう一人のギターは、ルピが「私の人生のバンダ・ソノラ(=サウンドトラック)よ。」と言う、ギタリストでルピの旦那さんのクーロ・デ・マリア(Curro de Maria)。来日の際にはインタビューもさせていただきました。(その記事はこちら)いつも何かを伝えよう、そして、自分たちの活動を広げていこうとエネルギーに溢れている二人の舞台は下記の映像でご覧ください。

JAVIERFERGO_FLAMENCONAUTAS_016.jpg1日おいてのフェスティバル5日目のビジャマルタ劇場での公演は、フラメンコナウタス(FLAMENCONAUTAS)の「バモ アジャ(Vamo' Alla':英語で言うとレッツゴー!)」。フラメンコナウタスって誰?と思われるかもしれませんが、蓋を開けるとハビエル・ラトーレ(Javier Latorre)が中心となって構成したインターナショナルチーム。ハビエルが各国でレッスンを行っている中で、目に止まった生徒に声をかけたり、オーディションを行ってメンバーを固めていったようです。ユネスコの無形文化遺産に登録されたフラメンコには、インターナショナル化を目指す動きがあり、その一環としてアンダルシアのフラメンコ振興局もこの公演を後押ししたようです。そして、フラメンコの国際化といえば、その第一人者の小島章司さん。「コジマ」の名前はフラメンコ関係者の中で知らない人はいません。

JFE_0472.jpg小島先生がスペインに渡ってフラメンコの世界に入られた時代は、今のように日本人枠的なものは存在しませんでした。全くゼロからのスタート。インターネットで簡単に有名アーティストのクラスに申し込んだり、YouTubeで観たりもできない時代に、スペインでフラメンコを学び、現地のカンパニーでの仕事を獲得するのはかなりの難関だったと思われます。日本人を出して、目新しさでお客を呼ぼうというご時世でなかったことは、小島先生が出演の際にスペインの名前を付けられていたことからも分かります。そのご活躍のおかげで、日本人が一目置かれるようになったと言っても過言ではありません。
以前ブラジルに住んでおりましたが、そこで「ジャポネーズ・ガランチード(=日本人は信用できる)」という言葉があることを知りました。日本人移民、つまり日系一世の時代に、彼らの真面目な仕事ぶり、彼らの作るものの品質が高かったことから、「ジャポネーズ・ガランチード(=日本人は信用できる)」という言葉ができ、その後の日本人(日系人)の雇用や商売の道を広げました。フラメンコで大切なことは、技術の前にレスペクトと英語で言うところのdisciplin、つまり、相手に尊敬の念を持ちそれを実行に移せることです。これは人から教えられるというより、自らが身につけていくもの。それが身についていれば、登場しただけでスペイン人の拍手を呼ぶ外国人が「日本人」であることを、同国人としてありがたく誇りに思えることができるはずです。

JAVIERFERGO_FLAMENCONAUTAS_003.jpg企画の中心となったハビエル・ラトーレは、11歳の時に生まれ故郷のバレンシアでスペイン国立バレエ団の公演を見て「これだ!」と思って、マドリードに旅立ちました。小島先生もフラメンコの為に、それまでのオペラなどのキャリアを捨てて、スペインへと旅立ちました。「フラメンコナウタス=Flamenconautas」の「ナウタス-(nautas)」は、旅する者という意味の造語を作る時の言葉(sは複数形を表します)。例えば、宇宙飛行士は「アストロ(=宇宙)ナウタ」と言います。ヨーロッパ、アジア、南米出身のメンバー達も自国から旅立ってきました。その中には、日本人の今枝友香さんも。大勢に囲まれてブレリアのカンテを披露しました。
バイレの中心となったのは、スペイン人のホセ・マルドナード(Jose Maldonado)。バルセロナ出身で、マドリードに出て、映画「カルメン」にも登場するフラメンコ学校「アモール・デ・ディオス」で学びました。その他に、ハビエル・ラトーレの娘のアナ・ラトーレ(Ana Latorre)、メキシコ人のバイラオーラのケレン・ルーゴ(Karen Lugo)も目を引きました。なんと彼女は、カルロス・サウラ監督の映画「フラメンコ・フラメンコ」の中のハビエル・ラトーレ振り付けの場面「エル・ティンポ(El Tiempo)」のセンターで踊っていたダンサーではありませんか!ソロのバイレ、ホセとのスピード感あふれるパレハ(ぺアダンス)も印象的でした。

JAVIERFERGO_FLAMENCONAUTAS_002.jpgカンパニーと一緒にハビエル・ラトーレ自身も舞台で踊りましたが、ラトーレが出てくるとあまりの動きの美しさに、他のメンバーが目に入らなくなってしまいました。美しい余韻を残す気品のある動きは、フラメンコ界の宝。そして、ラトーレに導かれて登場したのが、小島章司さん。踊り出す前から客席から拍手が起こります。78歳になられても現役で、スペインやフランスなど海外からも招待されて舞台に立ち、日本人ダンサーということではなく、「ショージ・コジマ」という存在で、本場スペインのフラメンコ界に名を連ねておられます。もうトレードマークにすらなっている、黒のファルダ(スカート)で魂のこもったシギリージャ(曲種名)を踊られました。

JAVIERFERGO_MOLINACAIDA_002.jpg次の日は、バイラオーラ、ロシオ・モリーナ(Rocio Molina)の「カイーダ・デル・シエロ(Caida del Cielo)」。昨年予定されていた公演ですが、直前に公演先のバレンシアで盲腸炎の緊急手術となり、中止になっていました。手術直後なのに、電話で「踊りたい!」とフェスティバル関係者に言っていたほど、踊ることへの執着の強いプロ意識の高いアーティスト。批評を恐れずに自分の思想を作品にぶつけていっています。身体能力の素晴らしさだけでなく、技術、センス、ユニークな発想は高く評価され、振付のコラボにも声がかかり、今回のフェスティバルでも、自分の公演以外2公演に振付や協力をしています。(ロシオについての過去記事はこちら

image__RocioMolina_Jerez_AnaPalma_2660_4762345463891373185.jpgこの作品は、天から落ちてきた女性の旅。そして観る者も、彼女のバイレによって静寂、音楽、別世界の騒音が渦巻く中へと導かれていきます。オープニングはいきなり現代風のバンド演奏。ホセ・アンヘル・カルモナ(Jose Angel Carmona)がベースと歌、いつもロシオ作品の音楽を担当するエドアルド・トラシエラ(Eduardo Trassierra)もベース。映画音楽のような性質を求められるロシオのバイレへの曲作りをいつも見事にこなしています。バイラオールでもあるオルーコ(El Oruco)がカホンを叩き、先日ご紹介したパブロ・マルティン・ジョーンズ(Pablo Martin Jones)がドラムでガンガンにロックに始まります。この4人はロシオの前作「ボスケ・アルドラ(Bosque Ardora)」でも共演。パブロ・マルティン以外の3人は、ここ数年、ロシオ・モリーナの活動の常連メンバーです。

image__RocioMolina_Jerez_AnaPalma_2669_5701998049409228260.jpgそれが終わるといきなりの静寂。真っ白なドレスでロシオが現れます。ベビーフェイスにアンニュイな表情を浮かべて床の上を這うように踊ります。作品のタイトル「カイーダ・デル・シエロ」は、空からの転落。シエロは天国とも訳されるので、堕天使的なニュアンスも持っています。この場面は「死にそうに退屈な天国」。そこから地上に落ちてきたことで、この世に「誕生」。生まれたままの一糸まとわぬ姿となります。そこから、この世の「女」が描かれていきます。攻撃的になったり、抑圧されたり、女ゆえに味わう快楽や悲しみ、抵抗、自由をつかんでの賛歌。

印象的な真っ赤な絵の具を使ってのシーンは、堕胎。舞台上での踊りの様子を真上から写した映像が、舞台のバックのスクリーンに映し出されました。JAVIERFERGO_MOLINACAIDA_005.jpgイマジネーションと音楽に突き動かされるロシオのバイレは、一昨年セビージャで4時間にわたるインピロビゼーションの公演を成功させただけあり、常人にはとてもできないミラクルな動きの連続でも最後までエネルギーが落ちることはありません。「女性」をテーマに描くことが多いロシオの作品。繊細でありながら勇敢なロシオそのものがいつもそこに浮かび上がってきます。

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3つの壁の乗り越え方

【フラメンコに行き詰まりを感じている方へ】

フラメンコ(カンテ/踊り/ギター/他)が難しい...
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