こんにちは!
唐突ではありますが、
今回から私がフラメンコに出会ってから
今提唱している、スローフラメンコにいたるまでの経緯をお話していこうと思います。
22歳の時、フラメンコのために4年間の留学を決意し、そして実行した私。
昼間はフラメンコ雑誌「パセオ・フラメンコ」で、
夜はタブラオ「アルハンブラ」でウエイトレスのバイト。
踊りの教室は2つ掛け持ちし、クルシージョにも積極的に参加。
パセオの店にあったCDを聞きまくり、
パセオの創刊号はもちろん、
イベリアが出していたパセオ以前のフラメンコ雑誌も全て読んだ。
バイトのおかげで、日本で見られるフラメンコのかなりの数を無料で見られた。
(今は踊っていないので、恥ずかしくて大きな声では言えないまでも)
留学して2年半過ぎたときの1998年新人公演では特別奨励賞を受け、
受賞後もスペイン政府給費留学生、文化庁芸術研修生としても留学を続けていた。
マドリッドの劇場でソロコンサートもしたし、
小規模ながらもへレスのアーティストを呼んで
日本でコンサートツアーを2度ほど実行した。
クルシージョを開けば、
苦労することなく生徒さんは集まってくれた。
もし、当時帰国してお教室を開いていたならば
日本のフラメンコ界での地位も経済面も安定していたことだろう。
そんな私がなぜ、舞台でフラメンコを表現することをやめ、
平凡な日常生活の中ににあるフラメンコを探すことに至ったのか。
そしてそれをスローフラメンコと呼ぶ理由は?
それを順を追って話していきたいと思います。
なお、へレスでのスローフラメンコ生活は、
4月から始めたメールマガジンに書いていきます。
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1969年生まれ、現在46歳。
会社員の父、専業主婦の母、妹ひとりの4人家族。
小学生のころ、バレエに憧れたけれど、
3歳から始めないと意味がないという
世間の声をちゃんと聞く良い子だったばっかりに
21歳でフラメンコを始めるまで
踊を学ぶというチャンスを逃してきてしまった。
そのころ習っていたのはお絵かき、ピアノ、英会話。
部活でバスケ、バレーボール、テニス。
自分の部屋の整理整頓ができない癖を直したいという動機で、
武蔵野美術大学で空間デザインを専攻する。
在学3年の春に、友達と二人リュックを背負って
ヨーロッパ1か月の旅をする。
目的は美術館めぐり。
スペイン、マドリッドではプラド美術館を訪問後、
タブラオでフラメンコのショーを初めて見る。
クアドロフラメンコのパルマとハレオに興奮し、
帰国後すぐにカルチャーセンターの教室に通い始めた。
卒業時は超売り手市場だったため、
就職先はかなり簡単に見つかった。
しかし、インテリアコーディネーターの見習いをしてお給料をもらったのは
たったの4か月間のみ。
夏にはその会社を退職していた。
その理由は、母親の看病。
私が大学1年のときに手術して完治したはずの胃潰瘍が再発したのだ。
母は入院し、私たちは医者に呼ばれ、彼女が余命数か月であることを知る。
実は胃潰瘍ではなく、胃がんだったのだ。
父は初めから知っていたが、母と娘の私たちには真実を隠していた。
今と違って、当時は癌の告知はとてもデリケートな問題だった。
大ショックを受けた私は、
母の病気に向き合う時間を持つために会社をやめた。
フラメンコの教室は就職してから職場の近くの教室に変えていたが、
そこもしばらくお休みすることにした。
余命を告知されたということは
病院ではもうできることはないということだ。
私は、霊媒師とか奇跡の薬草とか
そういった方法を探し始めた。
そんなとき、大学時代の友達から電話が入った。
彼女は「自己啓発セミナーを受けてみない?」と私に言った。
つづく