フラメンコに興味を持ち、27歳で佐藤佑子先生の門を叩いた。31歳で渡西。最初は、フラメンコという未知のものへの期待感、出来なかったことが出来るようになるというシンプルな達成感、踊りへの憧れなどが楽しさを増幅し、文字通り夢中になった。しかし、渡西してから先は、フラメンコを自分が踊るということに対してずっと格闘し続けてきたように思う。
21年前。セビージャ。クラスに慣れてくると足のパターンを取ることだけは早くなり、スペイン人が私に聞いて来たりもする。しかし、彼らはパソが分かればあとは水を得た魚のようにすいすい泳ぎだすが、自分は習ったことを「やっている」だけ。生きたフラメンコに触れたくて半年過ごしたマドリーから南へ下ったのに、今思い返すと、あの頃は果たしてフラメンコが本当に好きだったのか、よく分からない。たくさんの踊りの舞台を見て、カンテを聞く機会もそれなりにあったが、家に帰ると自分が馴染んだジャズをよく聞いていた。フラメンコはまだまだ遠く、家でお米を炊いて白飯でほっとするように、一人ぼっちの家の中ではよく知った音が必要だった。
1年間のセビージャ生活の最後に、個人レッスンでついていたマヌエル*が歌い手を連れて来た。振付を習ってたくさん練習してきたのに、色んなパターンのブレリアを歌われ、私は全く迷子だった。習った振りは歌に合う場合もあるが、合わない場合もある。尺だけの問題ではない。「歌を聞け!」「聞いてるけど、どうしていいか分からないんだよ!」。歌い手が気の毒がって同じのを歌うと、マヌエルは「違うのを歌って!」ふと偶然にも、自然に溶け合う瞬間があった。まともな身体で上手に踊りたい、それだけを思って走って来た自分に現れた、新たな感触だった。
*マヌエル― マヌエル・ベタンソのこと。現在はマノロ・マリンから引き継いだアカデミアを主宰、世界各地でもクルシージョを展開する人気者の踊り手、指導者。この頃はまだ若く、日本人を教えたのも初めてだった。
セビージャからヘレスへ居を移す。セビージャのピソにはあったテレビも電話も、ここにはない。夕方から一人、クラスをやっていると聞いたペーニャに出掛けて行くと、カンテ、ギター、パルマ、バイレがコンパスの渦の中で生きていた。夕方は小さな子供達、夜からは中学生くらいの子供達が三々五々集まって来る。近所のおじさんおばさん、父兄もいる。鏡はなく、先生と向かい合ってのまさに見様見真似。アカデミアのクラスとは全く違う。きっとここだけにあるはずの暗黙のルールを探す。まずはレッスン代の交渉だ。クラスに入れてはもらったが、私はなるべく目立たないように、とにかく観察した。面白くて仕方なかった。
普段はだらだらしているマヌエラ・ヌニェス*が、たまに興が乗って踊ると、ブレリアは最高潮にキラキラを増してその場にいる全員が思わず「オレー!」と言わずにおられなかった。他の子供達も、ギタリスト、歌い手が現れると、ついさっき習った振りのエッセンスを入れて、自在に踊っていく。生きていた。習った振りに音をかぶせるのではなく、相互間交流だ。生きている何かに憑りつかれた私は、それまでに習った振付を練習することに興味がなくなり、巷に溢れる作られた音楽が気持ち悪くて聞けなくなった。
*マヌエラ・ヌニュエス ― カルロス・サウラの映画「フラメンコ」の冒頭ヘレスのグループでブレリアを踊る女の子。現在は母となり、そしてプロの踊り手として主に地元ヘレスで活躍中。
お金が底をついて帰国。ヘレスにあるようなブレリアを教えて!と自然に人が集まって来て、そうこうするうちに教室の形態になり、スタジオも構えた。少なからず舞台に立つ経験も踏み、多大な経済的リスクを背負いながらも、尊敬するアルティスタをヘレスから招聘した。常に、自分が何故フラメンコを踊るわけ?という、解決しようのない悩みを抱えながら、カンテヒターノを聞くと何故か、自分は大丈夫だ、とほっとし、ブレリア・デ・ヘレスは私を無条件にワクワクさせる。この習性は変えられない。フラメンコは生きていて、だから自然の匂いがあり、どこかに出掛けるという必要性も感じないほどだった。
そんな私が、昨年秋くらいから、今まで味わったことがないような種類の、無理に言葉を当てはめるとしたら「不安感のようなもの」の気配を察知し始めた。日本人である自分がフラメンコを踊るという矛盾から来る苦悩はすでに人生の友みたいになっているけれど、今回のはどうもそれとは違う。最近に至っては、自分の生き方すべてが間違っていたんじゃないか、考え方も間違っているんじゃないか、やり直せるならやり直したい、いや待て、自分はもう52歳、いったいどうやってやり直せるというのか、新しいことを始めるにはもう遅すぎる、そんな言葉が頭の中でグルグル回るようになった。そして、気が付くと大量の涙。
まず、更年期鬱を疑う。ネットで調べる。調べながらまた泣いている。どうした、私?
スタジオへ行けば熱いクラスが展開し、結果、生徒達からエネルギーをもらう。ずっとフラメンコに悩まされているけれど、フラメンコを続けてきたお蔭で、こうして人が集まり、場が持てている。フラメンコに助けられているじゃないか。しかも、踊っている時は他のことは何も入って来ない。コンパスは否応なく踊りを始動させ、ギターと歌が踊りを連れて行く。一緒になれない場合は何か原因がある。だから直す。そのシンプルさは健康そのもの。フラメンコありがとう!
しかし、クラスが終わると、また例の不安感が胃の中から膨張する。他人と接する時間がかろうじて自分を保たせてはいるものの、奥に巣食った不気味な何かは、消えてはくれない。
2014年1月5日、河口湖へ向かう。
曇り空。道中雲の切れ間から富士山が覗くも、到着した河口湖畔の旅館からは、謳い文句の絶景富士は見えず。
夜、連れと大喧嘩。原因思い出せず。色々な問題があるからこそ、くだらないことをしよう、気晴らしをして楽しく生きよう、ねえ、楽しくしようよ、そんな言葉が私に刺さる。気晴らしなんかしても、根本的に解決してなかったら、また苦しくなるだけなんだよ、私は気晴らしなんか嫌いなんだよ! そして気がついたら、今抱えている不安感のようなものを暴露していた。
連れは、なんでも話せばいいんだ、と言って大泣きの私を励ます。このところの私が何かおかしいと気づいていたようだ。
1月6日快晴。
部屋から河口湖越しに逆さ富士が見えた。屋上露天風呂で、富士山を眺めながら温泉につかる。空気は澄んでいて、少しの風が顔を撫でる。
チェックアウト後、西湖の方までドライブ。村の中を散歩する。すすきを踏みながら、朽ちた家の周りを歩く。柿の木。静かだ。振り返ると西湖の水面が静かに揺れている。
東京へ戻る車の中、澱のように溜まっていた不安感の気配が消えていることに気が付いた。
1月10日現在。
軽い更年期鬱だったのか。いや、本物の更年期鬱はこんなもんじゃないのかもしれない。わからないけれど、落ち着いている自分を感じられている。
こんにちは。踊り手の大沼由紀です。
昨年から悩まされ続けた不安感のようなものが、やっとどこかへ去ってくれたようです。もし更年期による症状だとしたら、また押し寄せて来るかもはしれないけれど、今はとても落ち着いています。ざっくりと経過を書いてみたのは、もしかしたら同じような症状の方の少しの助けになるかもしれないと思ったからです。なぜ去ったのか。富士山のパワーなのか、温泉で身体が緩んで神経も緩んだのか、でも、おそらく一番は、連れにぶちまけたことかもしれません。
踊り手は踊りで伝えることが一番大事と、ブログのようなことはしてこなかった私ですが、これからはフラメンコシティオのブログで、フラメンコと格闘してきた25年間に見つけたこと、感じたこと、そして昨年から始まった不安感の、もしかしたら一つの原因になったかもしれない新しい試みについてなども、色々本音で話していきたいと思います。では、これからどうぞよろしくお願い致します。