「この映画には、私の綺麗な部分しか映ってないと思うわ」
映画「裸足のフラメンコ」のパンフレットに掲載される対談の最中、
長嶺さんは、ちょっと不満そうにこう呟いた。
「男性と浮名を流したり、借金を踏み倒したり、そういう私のハチャメチャな部分はまったく出てこないもの」
対談のお相手は、スペイン修行時代の一時期を共に過ごしたという小松原庸子さん。
長嶺さんの魅力を語る小松原さんの話の中に「自由奔放」という言葉が度々出て来た後のことだ。
「踊っている長嶺さんは、十分に奔放でしたよ。踊りを見ればわかります」
対談の取材・構成担当としてMC役で臨んでいた私が思わず口をはさむと、間髪をいれず、長嶺さんは言い放った。
「あら、踊っている私?、あれは演技よ」
閑話休題。
確かに、この映画の中に出てくる"長嶺ヤス子の日常"は、静かだ。
男にとち狂う情念の女も出てこないし、借金取りに追いまくられる姿もない。
70をとうに過ぎた長嶺さんの日常は、一見穏やかに流れているようにもみえなくない。
だが彼女の周囲では、、いつもいろいろことが起こる。
突然のがん発病、近所の老犬ハチの半ば住み込みでの介護......。
「映画のために何も特別なことはしない」という条件で
撮影が進められたというこの映画。
画面に映る長嶺は、まったくの素のままである。
そう、私がよく知る、身も蓋もないくらい正直で、天衣無縫と超リアルを背中合わせに持つ長嶺の姿がそこにある。
そして、そんな長嶺の口からこぼれてくる、言葉のひとつひとつは、
なんと、「自由」で「奔放」なことか。
長嶺ヤス子という人は、
自分の中にある「燃えたぎる思い」や「納まりのつかない感情」を
並はずれた赤裸々さと表現力で、踊ってきた。
踊り手長嶺ヤス子の魅力は何ですかと、問われたなら
私は迷わずこうこたえる。
「踊りのために全身全霊を投げ出す奔放さ。踊っている時のあの身の投げだし方にこそ、彼女の真髄があります」と。
彼女の踊り(フラメンコ以外)は、かなりアクロバティックだったりもするのだが、
エネルギーのベクトルは、制御を解放がいつも凌駕している。
共演者に、ステージの床に、そして観客に
長嶺はは丸ごと身体をゆだねて踊るのである。
ちょっと想像してみてほしい。
たとえば、まったく手を使わないで、膝を折らないで、
あなたは頭から床に倒れこむことができますか?
痛いですよね? 恐いですよね?
もしそれが出来るとしたら、そこにはものすごい制御=コントロールが加わっているはず。
でも、不思議なことに"長嶺ヤス子"の踊りに制御の跡は感じられない。
長嶺の踊りは、そんな動きの連続に私には見えるのだ。
何の担保も掛けずに投げ出される身体。
そうして、舞台の上の彼女は、やすやすと鬼女にも、魔女にも女神にもなる。
その潔さは、日常の長嶺にも貫かれている。
彼女は、周囲の人々の思惑や感情に、ほとんどの場合、頓着しない、執着しない。
自分がこんなことを言ったら、他人にどう思われるか?
などということは気にしない。
だから、ひとたび譲れない感情がもたげてくると
他人の迷惑などおかまいなしに、意思を通す。
その半面でとても細やかな心遣いを見せたりもするが、
あくまで自分の感情に100パーセント忠実なのだ。
そんな彼女の語り口は、いつも呟きのようだ。
独り言のようだ。
大げさな表現も、抑揚もない。
喉を突いて出てきた言葉がなんの加工もほどかされないまま吐き出される、とでも言ったらいいのか。
そういう言葉を発する人を
私は、長嶺ヤス子を置いて他に知らない。
ふだん長嶺のそばにいて、彼女が発しているオーラは、
烈しい情念の女のそれではない。
いやむしろ、強烈な渇きである。
長嶺さん! 心配しなくても大丈夫ですよ!
「男と浮名を流す」なんていう絵に書いたような奔放さなんて、
今のあなたにはまったく必要ありません。
ざらっとした語り口で静かに繰りだされる、
あなたの言葉のひとつひとつが、
十分に、長嶺ヤス子の奔放さを体現しているのですから。
そんな"長嶺ヤス子"の凄みが、十分に伝わってくる映画だ。
昨日から約1カ月の予定で公開中。
「裸足のフラメンコ」予告編
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