この週末は、フラメンコ三昧で過ごした。ドローレス、倉橋富子―田代耕一グループ、そしてベニート・ガルシアの作品「標」。全くテイストの異なる3つのフラメンコが、私の中を一気に駆け抜けて行った。その爪痕を記しておきたい。
土曜の昼さがり、エル・フラメンコでのドローレス。
圧倒的なその声に、喉に、心震えた。ぐわんぐわんと揺さぶられた。
一曲目から最後まで貫かれたド迫力。桁はずれのポテンシャル。
ティエントに始まってソレア、シギリージャ......ブレリアまで全8曲(だったと思う)を歌いあげた。
それは時にすべてを孕む大海原のうねりのようであり、
闇を突き破る怒号のようでもある。
私の頭の中が空っぽになる。そして、何か不思議な力に満たされていく。
アグヘータから受け継いだその声は、現代の奇跡だ。
言葉なんて、もういらない。
夜は3年ぶりに九州からやってきた倉橋富子・田代耕一率いるグループのライブ。会場のエスペランサは超満員、立ち見が出るほどの大盛況だった。
数だけではない、その熱狂的ともいえる観客=支持者たちの歓声が、ハレオがステージと呼応して、エネルギーの渦となる。これ以上 ないほどの熱気。倉橋のカリスマパワー恐るべし。
まだ、ヘレスが今ほど注目されていなかった頃、日本の中で誰よりも早く、深く、ヘレスの地と結びついた活動を展開していたのは彼らだった。それは東京から遠く離れた福岡から、日本のフラメンコを牽引する力を放っていた。今ではそう珍しいことではなくなかったが、現地の伝統的なペーニャで日本人として初めて舞台に立ったのも、確か、倉橋―田代のグループだった。
その底力は今なお健在であることを見せつけたステージだった。
ゲストの斉藤克己は、ステージの見せ方を知るプロフェッショナルだ。
倉橋達とは全く別のタイプのステージアップされた踊りなのだが、彼にしか出せない味がある。フラメンコのエッセンスがある。
この日踊ったアレグリアスでは、なんとサリーダを自身でくちずさみながら登場。そのまま一歌を歌いきり、そこから踊りへとつなげて行った。オレ!
そして昨日はベニート・ガルシア公演「標」。
昨年10月に初演した作品の、1年をまたずしての再演だ。
テーマ、出演者、主な構成はほぼ初演を踏襲しているが、細部には変化が加えられていた。
それにしても、自分でも不思議なくらい、再演という感覚を全く持たずに新鮮に見ることができた。同じ作品をなぞったというような匂いが全くなく、すべてが今この瞬間の熱に溢れていたからだろうか。
練り上げられた美しい音楽が素晴らしい。ダビ・パロマールのカンテ、リキ・リベラのギター、冴えわたる。そして平松加奈のヴァオリンはいつもにも増して印象的だ。
その音楽に呼応して踊るベニートのバイレ。正確無比なコンパスは心地よいだけでなく、細やかな心の襞まで奏でる。カンテ、ギターとの濃密なからみが、踊りの陰影を深掘りする。特にアカペラで歌われるアレグリアスにのせての一曲は絶品。超絶のコンパス感覚と音楽陣との一体感は、彼の真骨頂である。
スペインから日本に移り住んで十数年。
スペインの血と空気、そこで育まれた伝統(しかも現在進行形の)を何よりも尊重するフラメンコのアルティスタでありながら、祖国を離れた彼は、深い孤独と不安の中に身を置くことになる。
そして彼は求め続けた。自身の魂とアルテのよりどころを、「標」を。
そんな彼自身の歩み、人生そのものをテーマにしたこの作品は、
緻密な構成と、様々な仕掛けを随所に織り込んで、
極めて完成度の高い作品に仕上げられている。
そして作品からは、
彼の、フラメンコへの、祖国スペイン故郷コルドバへの、そして自身が生きる場所として選んだ日本への愛が溢れ出ている。
彼が極めて丁寧に起用した
3人の踊り手たちは、それぞれの個性でベニートの期待に応える演技を見せた。
なかでも篠田三枝のムイ・フラメンコなグアヒーラに、私は心を動かされた。
唯一残念だったのは、会場に空席が目立ったこと。
初演からあまり時間が経過していない早い中での再演だったことがその主な原因と推察するが、
そんなことへの心配よりも、
ベニートのこの舞台への情熱が勝った今回の再演だったように思う。
舞台へのはやる気持ちもまた、現在のベニートの心境の写し鏡であるに違いない。
彼のすべてが投影された作品「標」。
それは全力で日本と向き合って生きて来たベニートの生きた証の結晶である。
さまざまな必然と偶然が重なって日本の地に舞い降りてきたベニー・ガルシアという才能に、私は思わず感謝の気持ちでいっぱいになった。
彼の「夢」が「思い」が
この日本で更に大きな実りをむすぶことを願ってやまない。