最初にまず、書いておく。
アントニオ・ガデス舞踊団の『カルメン』は、私の知る限り、バレエ・フラメンコの最・高・傑・作である!
フラメンコには、家族や仲間内で行われるプリミティブなものから色々あるが、バレエ・フラメンコは主に劇場で行われるフラメンコ舞踊作品のことを指す。
日本の経済が右肩上がりだった時代、それこそ世界を巡る有名作品を引っ提げ、スペインから大舞踊団がいくつもやってきた。
スペイン国立バレエ団、アントニオ・ガデス舞踊団、マリオ・マジャ舞踊団、クリスティーナ・オヨス舞踊団、アントニオ・カナ―レス舞踊団、アンダルシア舞踊団、サラ・バラス舞踊団、ホアキン・コルテス舞踊団……etc.
けれども、ガデス舞踊団の『カルメン』ほど、何度も来日公演を繰り返している演目が他にあるだろうか。
これは、多くの人に愛され、支持される、作品としての完成度もさることながら、ガデス亡き後もこのクオリティを維持してきたステラ・アラウソを初めとするスタッフ、キャストの真摯さと熱意の賜物と言わざるを得ない。
私が最初に観たガデス舞踊団の『カルメン』は、日本でガデスの引退公演と言われた時だった。
ガデス演じるホセは、凛としていても老いを感じさせ、それは役柄よりさらに哀れさを増幅させた。
加えてステラ・アラウソ演じる鉄火で生きのいいカルメンの輝きが対照的だったことを覚えている。
その時だったか、ステラのインタビューをしたことがある。
数日に渡る本番の日々の中、わずかに空いた時間にお願いした。
ステラは素晴らしく誠実に答えてくれ、インタビューは上手く進んだが、「もう一問……」と私が切り出したところで編集者が「そろそろ時間です」とストップをかけ、ステラは慌てて行ってしまった。
後で編集者になぜ止めたのか聞くと、ガデスは本番中であろうと毎日リハーサルを欠かさないし遅刻はご法度。
「ステラが取材の最後のほうは椅子から腰が浮いていたのに気づきませんでしたか?」と言われた。
そう、ガデスは完璧主義者だった。
メンバーのその積み重ねの末に、あの作品の完成度は保たれていたのだ。
“3つの『カルメン』”
ガデスの作品は、昔のプログラムによれば、プロスペル・メリメの小説『カルメン』に想を得たバレエということになっている。
同じくメリメの小説を基にし、ジョルジュ・ビゼーが作曲したオペラ『カルメン』も、ガデスの着想に影響を与えていることは間違いないだろう。
だが、大衆受けするよう華やかに彩られたオペラとは違い、闇はよりいっそう深く、光はより強く強調され……つまり、よりスペイン的なのがガデス作品だと感じる。
もう20数年前になると思うが、月刊誌『パセオフラメンコ』で、3つの『カルメン』の比較記事を書いてほしいという依頼があった。3つの『カルメン』とは、小説、オペラ、そしてサウラの映画作品だった。
この企画のおかげで私は初めてメリメの小説を読んだ。
それで知ったのが、そもそもメリメもビゼーもフランス人であり、小説『カルメン』は、ざっくり書くと、メリメを投影させたフランス人の考古学者がスペインを旅行中に知った殺人事件に興味を持ち、留置場にいた犯人の男を訪ね、事件に至った経緯をあれこれ取材して考察するという話だということだった。
メリメ自身、スペインを旅行中に知った事件に着想を得たらしいので、そこには“フランス人の旅行者がスペインやジプシーに対して抱くイメージ”というバイアスがかかっていることは否めない。
実際、小説の中にはカルメンという女は登場せず、全て殺人者の男からの伝聞という形になっている。
カルメンは謎多き女であり、この女に誘惑され、翻弄され、ついには殺すにまで至った男の哀れが冷静な考古学者にも刺さるという展開で、カルメンの人物像や心情等は謎のまま。
よって、オペラでカルメンを演じることになった声楽家は、カルメンを具体的に造形するための手がかりの少なさに、皆、頭を抱えるらしい。
さて、そのオペラ作品は、オペラというものの構造上、メインとなる登場人物がカルメン、ドン・ホセ、エスカミーリョ(闘牛士)、ミカエラ(ホセの婚約者)と4人いて、場面場面でそれぞれの思いが熱唱される。
小説にはない設定や場面も合わせ、印象的なシーンを紡いでの見事なドラマ化は、当時の観客はもちろん現代の我々をも魅了する。
ことにカルメンが働くセビージャの煙草工場での喧嘩のシーンや、逮捕しに来た伍長のホセに花を投げつけて心を奪うシーン、ホセを誘惑する有名曲ハバネラのシーン、イカシたエスカミーリョの登場シーン、出獄したカルメンの夫をホセが喧嘩の末に殺めるシーン、山賊の仲間になったホセを母親の代わりに説得しに来るミカエラのシーン、華やかな闘牛が行われている外で口論の末にホセがカルメンをナイフで刺すシーン等、どこを取っても名場面揃いと来ている。ビゼーと声楽家たちのおかげで、カルメン初め登場人物たちにやっと命が吹き込まれたようにも思える。
しかし、ここで考えてみたいのは、基になった小説でそもそもメリメは何を書きたかったのかということだ。
小説『カルメン』は1845年にフランスの月刊誌『両世界評論』に掲載されたという。
“両世界”とは、フランスと別の世界の2つの世界という意味だそうだ。
Wikipedia曰く、(メリメの小説では)「設定のようにカルメンはジプシーの女(ボヘミア人)でありスペインにとっては異邦人であり、ドン・ホセがスペインの『内なる外』バスク少数民族であり、また語り手である『私』もまたフランス人であることなど、この物語の背景にある複雑な『内と外』の問題はそのままヨーロッパ社会のはらむ文化の『内と外』の緊張感を構成しておりこの小説の重要なプロットとなっている」。
なんだか難しいけれども、私流に理解すると、つまりメリメは『両世界評論』に書くにあたり、ひとつの事件からヒントを得て、異国スペインでのバスク男とジプシー女の相容れない文化や価値観の対立からくる悲劇を描いたということになるだろうか。
そこでガデスの『カルメン』はどうなのか、である。
ガデスの『カルメン』をカルロス・サウラ監督の映画で観て、「知ってるよ」という方は多いだろう。
しかし舞台作品においては、リハーサルシーンから始まるという仕掛けは同じでも、多重構造の映画よりもずっとカルメンとドン・ホセの物語自体に重きが置かれており、観る者をごく自然にストーリーの只中に引き込んでいく。
そのストーリーが、私には、まさしくメリメの小説の“重要なプロット”であるところの“文化の『内と外』の緊張感”を、実にシンプルに表現していると思えるのだ。
それでいて小説と違うのは、ドラマの中に、実際にスペインに生きる人々の血と呼吸が流れている点だ。
ご存じのように、スペインは今も、言語や文化等の違いから歴史的に国内にいくつかの分断がある。
バスクしかり、カタルーニャしかり。
ガデス自身はスペイン東部、アリカンテの出身だが、フラメンコと言えばアンダルシアという根強い考え方の中にあって、たとえレジェンドであっても、自らを“異邦人”と感じることがあったのではないかと想像する。
勤勉で実直なバスク男と、自由で奔放なジプシー女。
ドン・ホセを造形するにあたり、ガデスが自らの何かを投影したかもしれないと。
一方、カルメンはと言えば、先にオペラのところでも書いたように、演者は小説にヒントが少ないため、造形に非常に苦労するらしい。
夫がいるのになぜホセを誘惑したのか、ホセとよろしくやっているのになぜ闘牛士に心ひかれたのか、あげくの果てにホセに殺されるのがわかっていながらなぜ闘牛士の元に行こうとするのか。
ま、メリメもホセもガデスも皆、男性なので、理屈の通らない女性の言動は謎としか映らないかも(笑)。
ステラが監督を務めると、それがどうなるのか、私はそれも楽しみだ。
何しろ、私がカルメンというキャラクターで一番心惹かれるのは、彼女が自由を愛してやまない点にある。
なんたって縛られるのが嫌!なのだ。
出獄してきた夫には従順な振りをするが、これはマチョ社会に育った女性の知恵だろう。
かつて、あの野性味のある魅力的な踊りで知られるフアナ・アマジャが、別の作品でカルメンを踊ったことがあった。
私がインタビューした際、彼女は言ったものだ。
「光栄だったわ。スペイン人でフラメンコをやっている女性なら、皆、一生に一度はカルメンを踊ってみたいと思っているはず」。
フランス人の手から生まれたカルメンは、ついにスペイン人の血を得て、多くのバイラオーラたちの憧れの存在になっているようである。
そんな自由な女カルメンを、そして実直で哀れな男ホセを、今度の舞台では新しい演者たちがどんなふうに踊り、化学反応を起こし、我々をどう惹きつけてくれるのか、今から楽しみでならない。
ミーハーな視点でいえば、稽古風景のビデオを見たら、若い美男美女がキャスティングされていて、ちょっとドキドキ。
イケメンが奔放な美女に翻弄されて身を持ち崩すって、なんか胸がスッとしない?(笑)
いや、冗談はともかく、舞踊団の完成度にかける意欲は折り紙付きなので、何も知らずに観に行くも良し、メリメの小説を読んで行くも良し、サウラの映画を観てから行くもまた良し。
フラメンコをやっている方はもちろん、全く知らない方も、楽しめること間違いなしだと、私自身、大きな期待を寄せている。(了)
公演概要
アントニオ・ガデス舞踊団「カルメン」
2022年10月22日(土)13:00/17:00 10月23日(日)13:00
東京文化会館大ホール
S席¥13000 A席¥11000 B席¥9000 C席¥7000 D席¥5000(税込)
主催 MIYAZAWA&Co. サンライズプロモーション東京
チケットのお求め:アクースティカ(チケット予約専用ページで、S席・A席のみ取扱い)他
公演HP http://miy-com.co.jp/events/antoniogades/
- 就学児童入場不可
- 車椅子席をご希望のお客様はS席チケットをご購入の上サンライズプロモーション東京へお問い合わせください。
- 本公演は自治体や政府のガイドラインに沿った上で、新型コロナウィルス感染予防・感染拡大防止対策を講じ、開催致します。
菊地裕子
ライター
フラメンコ雑誌等で長く取材・執筆を行う。好きが高じて、現在は新宿ゴールデン街の老舗「フラメンコ居酒屋ナナ」にて週3回カウンターを務める。若い頃、演劇を志していたことがあり、その縁で11年前、フラメンコ舞踊家の東仲一矩が兵庫県三田市の劇場で上演したフラメンコ舞踊作品『カルメン』(ドン・ホセ/東仲一矩、カルメン/屋良有子、エスカミーリョ/稲田進)の脚本と演出を手掛ける。