3年ぶりのブレーニャコンサートが、3月6日に無事終了した。生徒が出るという意味では「発表会」と言えるけれど、これは生徒と作るコンサート。前回は3年前で、その前はなんと6年前。機が熟したと思う頃、やるぞー!と告げるわけだが、仕事や家庭や親の問題など、様々なものを抱えながら通っている生徒達は大変だ。フラメンコと向き合うことを優先順位の一番に据え置ける私とは訳が違う。しかし私は、フラメンコを踊ること、お客様から貴重な時間とお金を頂戴すること、この二つを生徒達に投げかけ続ける。
私は不本意ながら、厳しい、とよく言われる。私はただ、楽しいことがしたいだけなのに。フラメンコ特有の楽しさを生徒達とも共有したい。せっかくフラメンコを習っているのだから、振付を覚えて踊るだけではない、フラメンコにしかない楽しさを知って欲しい。そのためには、これだけは守らなければいけないということが、ある。だからそれをしつこくやる。楽しくなりたいから、妥協せず徹底的にやる。ここが、厳しいと言われてしまう原因だろうか。が、しかし。物事は表裏一体。裏側に気が付いてもらえれば、「大沼さんって楽しいことやってるわー」と言ってもらえる日も、来るかもしれない。
では、フラメンコ特有の楽しさとはなんぞや、ということになるが、それは何と言っても、録音で踊るのではなく、生身の人間と一緒にやるということだと思う。生音で踊るダンスは他にもあるけれど、踊りと音がこれだけ綿密にコミュニケーションを取り、踊りと音が対等で、言うなれば踊りが単体で独立していないってのは、かなり特殊ではないだろうか。まず踊りがあり、次にその踊りを引き立てる音があるというのが普通だろう。三位一体。これこそがフラメンコ舞踊の醍醐味の一つであることは間違いない。
生徒達の群舞で、厳密な意味での三位一体が生まれるかと言ったら、それは難しい。でも、そこへ向かうための道筋をつけることはできる。フラメンコは実に厳しい暗黙のルールで成り立っていて、学ぶべき基本はしっかり確立されている。基本を押さえ、ルールを守れば(言うほど簡単なことではないけれど)、歌い手やギタリストは、一緒にやる、というところに立ってくれる。踊りの後ろにいる応援団ではなく、一緒にフラメンコをやる同志となる。それが三位一体への最初の一歩だ。
普段のレッスンからそんなことを言われ続ける生徒達だが、そこに「お金と時間をいただく」という、恐ろしいものがドーンと現れると、何かと言い訳の多い人も(苦笑)、どんどん追い込まれていく。
フラメンコを踊ることは、ショーダンスとは真逆の位置にある。お客様を「楽しませる」というジャンルとは違う。大事なのは、ちゃんとマルカールする、ちゃんとレマーテをする、足が床を捉える瞬間を把握して、足が出すリズムを整える。おやまあ、なんと地味な作業だろう。もしかしたら、誰もが最初に持つ「情熱的なフラメンコ」というイメージとはかけ離れているかもしれない。けれど、ここをないがしろにしたら、ギタリスト、歌い手とは関係を築けない。三位一体の、あの楽しさから遠のいてしまう。そして何よりも、ちゃんとやれば、フラメンコ自体がものすごい力を持っているから、それなりの何かが生まれてしまうのだ。フラメンコマジック。
本番に向かう過程の中で、いい加減にやってきたところがどんどん炙り出され、追い込まれ、そして等身大の自分と出会うことになる。加算点、言い訳ゼロで発見する自分は、大概情けない。練習を重ねる=上手になる、ということはもちろんあるけれど、自分を見る勇気が持てるようになるというのが、実は一番の上達と言えるかもしれない。
逃げずに自分と向き合い、自分と戦うことで、生徒達の身体、顔つきは少しずつ変わって来る。
本番が終わってある生徒が、「冗談じゃなくほんとに、死んでしまうかもと思いました」と言った。しかしその顔は明るく、力がある。「ちゃんとやろう!」「何故そんなにいい加減にやるの!」「ちゃんとやるんだよ!!!」としつこく(厳しく?)教えているけれど、フラメンコを通して、フラメンコの力を借りて、私も生徒も修行しているんだよなぁとつくづく思う。