22歳だった私。
まだフラメンコのことを何もわかってはいなかったけれど、
母の死をきっかけにスペイン留学を決意。
お金と情報を集めなきゃ。
まず夜に日暮里のスペイン料理レストラン、
アルハンブラでウエイトレスのバイトを始める。
理由はもちろんフラメンコのショーが観られるから。
ここで週3回、日本人アーティストのすばらしいショーを
料理を運びながらも横目でちらちらと鑑賞できる日々。
フラメンコ雑誌『パセオフラメンコ』での雑用バイトにも応募し、
日中は高田の馬場の編集室で働かせてもらう。
母の看病で休んでいたフラメンコ教室も再開する。
でも、私のレベルのクラス(初級)は週に1回しかなかったので
もっと習えるように別の教室にも行くことにする。
そして、当時はまだまだめずらしかった
クルシージョ(短期クラス)にもかなり積極的に参加。
カンテクラスもやってみてたな。
フラメンコに始まりフラメンコに終わる
ひたすらフラメンコ中心の生活が始まった。
この留学準備期間
出版社『パセオ』には特にお世話になった。
だって、フラメンコ関係の資料が山積みの職場なんだもの!
休憩時間には本やバックナンバーなどを読みまくり
サンプルCDを聞きまくり、
フラメンコのコンサートにも仕事として行くことができたのだから。
日本にいながらも可能な限りフラメンコに触れているにつれて
だんだんとソレアとシギリージャの区別がつくようになり
自分がどんなフラメンコが好みなのかもわかってきた。
今思えば、
あのフラメンコに憧れきっていた留学前の時代は
純真そのものだった。
あのときの私にとって、
フラメンコは憧れで憧れで、焦がれて焦がれて
そしてついには『聖なるもの』にまで昇華していった。
先輩に
「あんまり深みにはまらない方があなたのためよ」
と忠告されたのを覚えている。
ああ、とってもかわいかったなあ当時の私。
もちろん、今の46歳な私もかわいいんだけどね、笑。
(あっこれってスローフラメンコの基本だからね。まずは自分に『オレ!』をあげるというスロフラの基本よ)
スペイン留学を決意したってことは
同時にプロになることを決意したってことでもあった。
「プロの踊り手になりたいんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
とセビジャーナスの先生に唐突に質問して彼女をびっくりさせたっけ。
踊りををカルチャーセンターで始めたのが21歳。
体を動かすという意味では
バスケットボール、バレーボール、テニスなど
スポーツはやってきたけど
踊りについては全くの初心者。
何をどういう順番で学んでいったらいいのか
検討がつかなかったから先生に聞いたんだけど
教えてはもらえなかった、笑。
その教室の振り付けの順番
セビジャーナスの次にファンダンゴデウエルバ、そしてタンギージョ
っていうのは教えてもらえそうだったけれど、
私が聞きたかったのは順番じゃないのだ。
やっていくうちにだんだん上手くなってくるから
ってことなんでしょうけど。
私は、週1ペースでゆっくりやっていくのではなく、
3段ぬかしくらいに加速して学んでいきたかったから
フラメンコの近くにいられる環境を自分で作り始めたのだ。
情熱、お金、時間はみんなフラメンコに注いだ。
私の人生はフラメンコだけです。
そう言っていいくらいの生活がスタートした。
スペインに留学する4年くらい前のことだった。
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