フラメンコと出会って20数年、その世界の片隅で仕事をするようになって20年以上の時が流れた。
自慢じゃないが、私は継続するのが大の苦手な人間で、
フラメンコと出会うまで(20代後半)は、6年間通った小学校が最長記録、
仕事でも稽古事でもそれ以上長く続いたものはなかった。
夢中になって何かに向かうことは、ままあったが、
挫折したり、あきたり、他に関心が移ったりの連続。
仕事として経済的においしいなどということは、一度も経験したことがなく、
貧乏暇なしを絵にかいたような歩みだったが、
フラメンコに対する熱が、冷めることはなかった。
それどころか、まるでバックパッキングの無銭旅行を楽しむ若者のように、
ハラハラ、ドキドキの人生道中を楽しんできた。
なんで、そんなにフラメンコだったたんだろう?
今改めて、それをとらえ直してみたいという衝動にかられる自分がいる。
これからしばらく、このブログを使って、
私が感じるフラメンコの魅力を
個人的な体験と思いに引き寄せつつ
しばらくの間、書いてこうと思う(不定期飛び石連載)。
落とし所は、まだ私にもわからない。よろしければ、お付き合いください。


   ★     ★     ★
フラメンコを知る以前から、
ダンスや演劇や音楽のステージを見る(聴く)ことは大好きで、舞台好きな人間ではあった。
舞台から感じる生身の人間のエネルギーのオーラを、私は何よりも愛した。
頭でっかちで生意気で、どこか冷めたマセガキだった私には、
実生活を全力投球で生きる根性はなかったが、
舞台の上の人間が発する大きなオーラは、間違いなく私に生きる希望を与えてくれた。
生きることの本当の意味など露ほども知らず、怠慢かましてのうのうと生きて来た私にとって、
舞台を見て興奮することは、自分自身の生を実感するほとんど唯一の時間だった。
そこでは、人間の身体の内から沸き起こるエネルギーを素直に信じることができた。
こう書いてくると、私がフラメンコにハマったのは自明の理だったように思えてくる。
そりゃ、生身の人間のオーラにかけちゃあ、フラメンコは天下一品だもの。
芝居や他の舞台アートのように、
舞台と客席という距離で、フラメンコと関わり続けていたのなら、
私にとってフラメンコは、好きなアートの一つにとどまっていたかもしれない。
だが、専門誌パセオの編集ライタ―というところから今の仕事が始まった私は、
幸運にもそのバックステージを、そこに生きる人々の生身の姿と直に接することができた。
生身の人間、
それは、フラメンコと出会う前からライターとして仕事をしていた私の最大の関心事だった。
フラメンコに人生をかけて生きる人々の
ステージを降りて、なお輝き続ける命のオーラに
私は夢中になった。
彼らは、とても我がままで、気難しくて、やんちゃで、生真面目で、不器用だった。
それぞれに強烈な個性を持ち、それぞれの形で、
フラメンコへのリスペクトと自身を生きようとする狭間で悩み、模索し、
あちらこちらにぶつかりながら実践し、
それを隠そうともせず、体当たりで生きていた。
半端な気持ちで近づいたら吹き飛ばされそうな、そんな気合と迫力に満ちていた。
ごつごつとした原石のまんまのような、
愚直なほどにまっすぐに生きようとするフラメンコたち。
私は、そんな日本のフラメンコたちに、鍛えれられ、育てられて、
今日まで生きて来たような気がする。
不器用な私は、もっと不器用な彼らを愛した。
愚直な私は、もっと愚直な彼らを愛おしく思った。
きれいごとでは終わらない、すまされないフラメンコというアルテに
私自身が救われ、
それまではぐれ者のように生きて来た私を、
フラメンコの懐の深さ同様に
彼らは、受け入れてくれた。
わたしは、生きづらい(と感じていた)この社会で、ようやく自分の居場所を見つけたような
そんな感覚があったようにも思う。
しかし、なにはともあれ、フラメンコと言えば、スペインなわけで、
そりゃあ、エル・コホも、ファルーコも、アグヘータもディエギートも、私の脳裏には鮮明に刻印されているけれど、
スペイン語も分からず、スペインのフラメンコに触れたそのほとんどが来日の公演である私は、
フラメンコの書き手としては、かなりいびつなのだろうとも自覚している。
それでもフラメンコに魅せられ、そこに生きる人々に魅了されてきたのだ。 (つづく)

3つの壁の乗り越え方

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